「推し」という言葉への違和感について自分語り

「○○は俺の嫁」という言い回しがある。

これは要するに「結婚したいくらい○○が好き」ということを意味する。

近年、その代わりのように「推し」という言葉が使われ出した、というのが僕の印象だ。

僕は何となくこの「推し」という言葉に違和感があった。

ただ単に流行に乗り損ねてきまりが悪いだけという可能性もあるが、何かしら理屈を立てられないか考えてみた。

 

「推し」の定義

まずは単純に言葉の定義を調べてみる。

他の人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物。「推しの主演ドラマ」
[補説]アイドルグループの中で最も応援しているメンバーを意味する語「推しメン」が流行したことから、多く、アイドルや俳優などについていう。

 

引用元:推し(オシ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

URL:https://kotobank.jp/word/%E6%8E%A8%E3%81%97-2132332

「推奨」とか「推薦」という言葉からもわかるように、他人に何かをおすすめしたい!という感情が「推し」という言葉の根底にあるらしい。

完全にこれだ、違和感の正体。

僕にとって好きなものと他人に薦めたいものは必ずしも一致しない。

というか気軽に話せる友達がいないので、まず他人に何かを薦めたいという気持ちにはなかなかならない。

だから「○○が好き」という意味では「推し」という言葉は使えないわけである。

逆に考えると、「好き=推し」の言い換えが成り立つということは、それだけ何かを薦めたり薦められたりが当たり前の生活を行っているのだと考えられる。

SNSが台頭して、交流が容易になったからこその変化と言えるかもしれない。

 

「推し」と現実

さらに言えば、「推し」という言葉はかなり現実に軸足を置いた言葉であるように感じる。

言葉の定義からしても、何かを薦める他人は現実に存在している。

また、売り上げに貢献することで応援したいとか、人気が増えれば作中での扱いもよくなるとか、現実的に自分の立場をわきまえているイメージがある。

確かにオタクがやっていることは現実的にとらえればそういうことだ。

でも、そういう考え方は一歩身を引いている感じがして寂しいと個人的には感じてしまう。

何も理由や意義がなくたって好きなら好きでいいじゃないか。

そもそも僕は現実が辛いから空想の世界が大好きなのだ。

現実の都合や他人なんて気にしたくはない。

虚構なのはわかっているけど、だからこそこの気持ちだけは本物だと信じる。

 

しかしそう考えると、「嫁」という言葉もかなり傲慢というか卑怯な言い方にも思える。

実際に恋愛できるシミュレーションゲームならまだしも、たいていの場合相手の了承なんて取れるはずもないものを。

とは言っても異性に対する「好き」の最上級は何かと考えると、「嫁」以上にふさわしい言葉はないように思える。

 

まとめ

・好き≠他人に薦める(言葉の定義)

・何となく現実目線なイメージがある(偏見)

この2つの理由から「○○が好き」という意味では「推し」という言葉を使わずに今後の人生生きていこうと思います。

趣味を共有できない寂しさを逆転させて、独占する悦びに昇華することで乗り越えた経験があるので、自分としては曲げられない部分です。

まあただの言葉なんだから、気にせず言い換えてもいいんだろうけどね。